徳川家15代将軍一覧まとめ!それぞれの行ったことや在職期間について!

こんにちは!

いぬやま(@inuyama_questions)です!

今回は、

徳川家15代将軍ってどんな人がいるの?

それぞれの将軍ってどんなことをしたの?

という方に向けて、徳川家15代将軍の行ったことをまとめました!

それでは見ていきましょう!

徳川15代将軍一覧

以下が、徳川15代将軍一覧です!

  1. 徳川家康(1603~1605年)
  2. 徳川秀忠(1605~1623年)
  3. 徳川家光(1623~1651年)
  4. 徳川家綱(1651~1680年)
  5. 徳川綱吉(1680~1709年)
  6. 徳川家宣(1709~1712
  7. 徳川家継(1713~1716年)
  8. 徳川吉宗(1716~1745年)
  9. 徳川家重(1745~1760年)
  10. 徳川家治(1760~1786年)
  11. 徳川家斉(1787~1837年)
  12. 徳川家慶(1837~1853年)
  13. 徳川家定(1853~1858年)
  14. 徳川家持(1859~1866年)
  15. 徳川慶喜(1867~1868年)

それぞれ見ていきましょう!

初代将軍 徳川家康(1603~1605年)

戦乱が続く戦国時代に終止符を打ち、初代将軍となった徳川家康。

関ヶ原の戦いに勝利した家康は朝廷から征夷大将軍に任命され、ここから約260年にわたる江戸幕府が始まります。

意外なことに、将軍としての在職期間はわずか2年ほど。

家康早々に将軍職を三男の徳川秀忠へ譲りましたが、政治の主導権は大御所として握り続けました。

2代将軍 徳川秀忠(1605~1623年)

関ヶ原の戦いに遅参し、家康を激怒させたことで有名ですが、堅実な政権運営で幕府の支配体制を確立した有能な人物でもあります。

家康とともに築城・改修の制限などを定めた武家諸法度禁中並公家諸法度を制定。

家康の死後も、キリシタン禁制の強化や武家諸法度の実行を徹底するなどの政策を行い、徳川家への中央集権を進めました。

3代将軍 徳川家光(1623~1651年)

はじめて戦に出ることなく将軍職へ就任した「生まれながらの将軍徳川家光

武家諸法度を改定し参勤交代を義務化するなど制度の確立に尽力し、その功績は「徳川家光がいなければ徳川幕府が約260年続くことはなかった」と言われるほどです。

キリスト教徒による「島原の乱」が起きたのもこの時代。

これにより鎖国政策が強化され、長崎の出島以外での貿易が禁止されました。

4代将軍 徳川家綱(1651~1680年)

三代将軍武力による専制政治「武断政治」から、武力に頼らない礼儀や法令による政治「文治政治」への革新を行った将軍です。

病弱で自ら政治をすることが難しかったため、叔父の保科正之松平信綱などの名臣が補佐し老中政治を確立

末期養子の禁緩和殉死の禁止などの施策を行いました。

5代将軍 徳川綱吉(1680~1709年)

行き過ぎた動物愛護法「生類憐みの令」を発令したことで知られる将軍です。

もともとは「人を思いやり、誠実であること」という儒学の教えを人々へ浸透させるための法律でしたが、違反した者は厳しく罰せられたため庶民には大不評。

犬公方」と呼ばれ受け入れられませんでしたが、犯罪件数の減少には貢献したようです。

6代将軍 徳川家宣(1709~1712)

15代将軍の中で最高齢の47歳で将軍に就任。

儒学者・新井白石を側近とし、最悪の評判だった「生類憐みの令」を廃止するなど善政を目指しました。

わずか3年の治世でしたが、家宣はとても慈悲深い人物だったそうで、その治世は7代将軍「徳川家継」と合わせて「成徳の治」と呼ばれ高く評価されています。

7代将軍 徳川家継(1713~1716)

わずか5歳で将軍に就任し、8歳で夭逝

幼過ぎる家継に代わり、新井白石などが引き続き政務を行っていましたが、政権は安定せず。

大奥の権力闘争による大スキャンダル「絵島・生島事件」などの混乱の中、短い生涯に幕を下ろしました。

8代将軍 徳川吉宗(1716~1745)

15代の将軍の中でも抜群の知名度を誇り、「暴れん坊将軍」として有名な徳川吉宗。

質素倹約を奨励し、新田開発の奨励足高制度の導入、身分を問わない人材登用などの「享保の改革」を推し進め、幕府の財政を立て直しました。

大奥の美しい容姿の女性を率先して解雇し、4000人いた女中を1300人にまで減らしたエピソードは有名ですね。

目安箱の設置町火消し制度の創設も吉宗が行ったものです。

9代将軍 徳川家重(1745~1760)

徳川家重は生まれながらに言語障害があり、周囲とコミュニケーションをとることが難しかったのだそうです。

それでも家重は「勘定吟味役」の充実幕府各部局の予算制度の導入酒造の統制など経済政策でいくつもの功績を残しています。

10代将軍 徳川家治(1760~1786)

幼少期から聡明であったため将来を期待されていましたが、主体となって政治を行うことはなく主導権は老中である田沼意次が握っていました。

人間的には優れた人物であったようですが、政治にはあまり興味がなかったようです。

11代将軍 徳川家斉(1787~1837年)

徳川家斉歴代の将軍の中で最も長く50年間将軍職に就いていました。

松平定信を老中に登用し、幕藩体制立て直しため「寛政の改革」を行いますがあまり成果は出ず、松平定信は失脚。

その後の家斉は贅沢な生活に耽り、側室との子供はなんと55人

外国船対策賄賂の横行で支出が重なり、財政破綻へと繋がりました。

12代将軍 徳川家慶(1837~1853年)

前将軍・徳川家斉が大御所として実権を握り続けていたため、家慶の発言力は強くなかったようです。

家斉の死後、幕府の財政を立て直すため水野忠邦を登用し「天保の改革を行いますが、改革は失敗

1853年の黒船来航直後に病死しました。

13代将軍 徳川家定(1853~1858年)

ペリー来航直後、内外に問題を抱える中将軍に就任しましたが、病弱なため老中・阿部正弘らに政務は一任

35歳の若さで亡くなりました。

14代将軍 徳川家持(1859~1866)

開港直後の動乱期に井伊直弼に押され、将軍に就任

朝廷と徳川幕府を合体させる「公武合体」で皇女・和宮と結婚しましたが、家持は長州征伐のさなか、大阪城で21歳の若さで病死

家持と和宮が江戸城で共に暮らした期間は、実質2年6ヵ月という短いものでした。

15代将軍 徳川慶喜(1867~1868)

水戸藩主・徳川斉昭の7男として誕生して誕生。

一橋徳川家の養子となりますが家督争いに破れ、井伊直弼による「安政の大獄」で謹慎処分となってしまいます。

桜田門外の変」で井伊直弼が暗殺されたことで慶喜は表舞台に復帰し、家持の死後に将軍に就任しました。

その後「大政奉還」を行い、これにより江戸幕府は終了

翌年「江戸城」も新政府軍に明け渡されました。

まとめ

今回は徳川家15代将軍について見ていきました!

後半になるにつれて、政治に興味がない将軍が増えてきていますね!

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